岩見沢の開墾と農業の歴史
開拓のはじまり
1882年(明治15年)、原田喜助が砂浜に入り、同年には狩野末治が幾春別川沿いに置かれた官設休泊所の借り受けを申し出るなど、定住第一号とされる人々が岩見沢へ移住しました。岩見沢ではその後、1884年(明治17年)から1885年(明治18年)にかけて山口県など十県から計1,503名の士族が移住しました。士族の移住は、士族授産と北海道開拓奨励を背景に制定された『移住士族取扱規則』に則って行われ、勧業課の監督のもと割り当てられた土地の開墾作業が進められました。一方、北村では原田が砂浜に入った後、1883年(明治16年)頃に滝本嘉助が樺戸集治監の見張りとして美唄達布に入地するなど、石狩川沿いを中心に移住者が増えていきました。また栗沢では1886年(明治19年)に柴田与次右衛門が農場開設を目的にクッタリ(栗丘)の土地の払い下げを受けたことを最初として開拓が始まりました。明治20年代後半以降からは北海道への移民が急増し、岩見沢も平野部から山間部まで開墾地が広がり人口も増えていきました。
開墾の始まった土地では、人の手で木を切り倒し、笹などを刈り取った上で、麦、黍、粟など自給自足のための食料が生産されました。明治30年代の半ば以降になって馬が普及し、同時にプラウをはじめ馬に曳かせて使用する農具が導入され、開墾作業に大きく貢献しました。
米作の広がり
北海道の開拓は、当初畑作が中心となりましたが、間もなく自家用米の栽培や稲わらの確保を求めて稲の試作が始まりました。岩見沢では1886年(明治19年)に寺山正一が1条西7丁目で行った試作を始まりとして、明治20年代に入り米作への挑戦が続きましたが、北海道に適応した寒地品種の定着、栽培方法や農具の改良に加え、1902年(明治35年)の土功組合法施行によって農業に必要な道路、橋、用排水設備などを作ることを目的とする土功組合が各地に設立されたことで水田が急速に広がりました。
土功組合法施行と同年に結成された岩見沢川向土功組合は、幾春別川から水を引く灌漑設備の工事に着手し、現在の稔町から西川町までの用水路を整備しました。また、1922年(大正11年)に認可された北海土功組合は、空知川から取水し現在の赤平市から南幌町まで流れる約80キロメートルの幹線用水路と石狩川から北村へ水を引く揚水設備などの整備を計画し、1924年(大正13年)から手掘りと馬搬による工事を開始し、1928年(昭和5年)に現在の北海幹線用水路を完成させました。
畑作と酪農
米作が広がる一方で畑作も続けられ、岩見沢では明治30年代から幾春別川沿いの地域で玉ねぎ栽培が始まり、栗沢では飼料用燕麦の栽培が広がったほか、栗沢市街地や栗山町の製麻工場から作付奨励のあった亜麻が長く栽培されました。一方、北村や栗沢を中心に畜産や副業としての綿羊飼育が広がり、北村では刈り取った羊毛からホームスパンを製作し全国副業博覧会で高く評価されました。
土地改良の歩みと現在
戦後になると、食糧増産のため泥炭地の水田化が計画されます。石狩川流域を中心に広がる泥炭地は、明渠・暗渠によって排水が進み、馬搬、軌道、索道による客土で土質の改良が実施され、水田へと変わりました。また昭和30年代後半から農業機械の導入が進んだことに合わせて圃場整備が行われ、水田区画の大型化や大型機械の通行に耐える農道整備による作業効率化が図られました。
1970年(昭和45年)頃には米の生産調整と転作奨励、農産物市場開放により米作を中心に発展してきた岩見沢の農業は転換期を迎え、良質米の生産や小麦や玉ねぎ、大豆、飼料作物や花卉など多様な作物の生産のほか、生産性の向上、農作業や経営の効率化を図り、現代のニーズや課題に対応する農業への取り組みが進んでいます。
岩見沢の農業の歩みを紹介する施設
岩見沢郷土科学館2階常設展示室にある農業の展示
岩見沢郷土科学館1階のホールや2階の展示室には農業に関する展示があります。また、北村郷土資料コーナー「北村の記憶」や来夢21資料館でも、各地域の農業の歴史やかつて使用された農機具を紹介しています。
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更新日:2024年10月28日